<Header>
<Author: 駱賓王>
<Title: 帝京篇>
<Format: 格式不明>
<Year: 1964>
<BookName: 唐詩選　上>
<Translator: 斎藤晌>
<style: 現代文無假名>
<style2: 日本現代譯文無假名標注>
<TranslatedTitle: 帝京篇>
<BookPage: 139-165>
<UsedPage: 27>
<Feature: 1, 2, 4>
<End Header>
<Poem>
山河千里國，
城闕九重門。
不覩皇居壯，
安知天子尊。
皇居帝里崤函谷，
鶉野龍山侯甸服。
五緯連影集星躔，
八水分流橫地軸。
秦塞重關一百二，
漢家離宮三十六。
桂殿嶔岑對玉樓，
椒房窈窕連金屋。
三條九陌麗城隈，
萬戶千門平旦開。
複道斜通鳷鵲觀，
交衢直指鳳皇臺。
劍履南宮入，
簪纓北闕來。
聲名冠寰宇，
文物象昭回。
鉤陳肅蘭戺，
璧沼浮槐市。
銅羽應風回，
金莖承露起。
校文天祿閣，
習戰昆明水。
朱邸抗平臺，
黃扉通戚里。
平臺戚里帶崇墉，
炊金饌玉待鳴鐘。
小堂綺帳三千戶，
大道青樓十二重。
寶蓋雕鞍金絡馬，
蘭窗繡柱玉盤龍。
繡柱璇題粉壁映，
鏘金鳴玉王侯盛。
王侯貴人多近臣，
朝遊北里暮南鄰。
陸賈分金將讌喜，
陳遵投轄正留賓。
趙李經過密，
蕭朱交結親。
丹鳳朱城白日暮，
青牛紺幰紅塵度。
俠客珠彈垂楊道，
倡婦銀鉤采桑路。
倡家桃李自芳菲，
京華遊俠盛輕肥。
延年女弟雙鳳入，
羅敷使君千騎歸。
同心結縷帶，
連理織成衣。
春朝桂尊尊百味，
秋夜蘭燈燈九微。
翠幌珠簾不獨映，
清歌寶瑟自相依。
且論三萬六千是，
寧知四十九年非。
古來榮利若浮雲，
人生倚伏信難分。
始見田竇相移奪，
俄聞衞霍有功勳。
未厭金陵氣，
先開石槨文。
朱門無復張公子，
灞亭誰畏李將軍。
相顧百齡皆有待，
居然萬化咸應改。
桂枝芳氣已銷亡，
柏梁高宴今何在？春去春來苦自馳，
爭名爭利徒爾爲。
久留郎署終難遇，
空掃相門誰見知。
當時一旦擅豪華，
自言千載長驕奢。
倏忽摶風生羽翼，
須臾失浪委泥沙。
黃雀徒巢桂，
青門遂種瓜。
黃金銷鑠素絲變，
一貴一賤交情見。
紅顏宿昔白頭新，
脫粟布衣輕故人。
故人有湮淪，
新知無意氣。
灰死韓安國，
羅傷翟廷尉。
已矣哉，
歸去來。
馬卿辭蜀多文藻，
揚雄仕漢乏良媒。
三冬自矜誠足用，
十年不調幾邅回。
汲黯薪逾積，
孫弘閣未開。
誰惜長沙傅，
獨負洛陽才。
<End Poem>
<Translation>
長安の都は四方に山河をめぐらし、沃野千里、そのなかに開けている。その中心にあたる宮城にはいるには九重の門がつらなっている。この皇居の壯大無比なのを自分の目で見なければ、どんなに天子がいものであるかはわからないだろう。
この皇居を中心とする長安城は、東にははるかに崤山の險をひかえ、古來有名な函谷關によって守られた王畿の土地に、天上の星からいえば鶉首の分野にあたるという、この秦の地の龍首という山丘の上に建設された。その昔、この都を開いた漢の高祖がここへこられたとき、水星、金星、火星、木星、土星の五遊星がめずらしくも東井という星宿のあいだに集まったという現象が見られ、それが聖人が世に出るめでたい兆として太平の世が始まった。地上では八つの川があたかも地軸の八つの柱に應ずるかのように、西、南、北に分かれて流れている。秦以來の要害に幾重にも關所を設けてあり、諸侯に百倍する堅固な地勢である。宮殿の周圍には離宮が三十六も設けられ、その構えの壯大さにおどろかされる。未央宮の西にある桂殿のあたりは薄暗くおごそかで、きらめく玉をちりばめた樓閣と相對し、皇后の住まわれる椒房のあたりは奥深 くもの静かで、黄金づくりの御殿につらなっている。三筋の大通り、九つの市街が交錯していて、その末は城壁にいたっている。宮城の數多い門戸は朝早くあけはなたれる。上下二階をなす同廊がななめに爆鵲觀に通じ、一方の四辻はただちに鳳凰臺にまで達しているのが見える。宰相を始めとする最高幹部は劍を帶び履をはいたまま、しずしずと南宮へはいってゆく。一方、陛下に上奏や謁見をするため響をさし冠の櫻を垂れて威儀をただした官僚が北闕を通ってあわただしくやってくる。群がり集まってくる百官の車馬につけた鈴の書も數が多いので耳にかまびすしく、それぞれの階級を表示した旗さしものの形や大小は目もあやにひとをおどろかせる。さすがは海内第一の壮觀というほかない。皇帝陛下、皇后、宮妃はいわずもがな、交武百官の禮服の華美なこと、五色にかがやいて天地四方の萬物と調和し、そのなかに自然の秩序があって、あたかも天にかかって明るく照らす天の川の運行を象徴しているといえよう。御所警衛の任にあたる侍從武官は所屬の近衛兵をひきいて香木のかぐわしい階段の兩側を嚴然として固めている。一方、教化の中心をなす國立大學のところには、圓形の池があって清湖な水がたたえられ、またこれにつづく廣場や歩道にはたくさんの槐の木が植えられて整然と列をなしている。＄ここは、諸國から選抜されてきている大學生が毎月、一日と十五日に集合して自分の郷里の特産物とか、書物とか樂器とか、 いろいろな物を持ちよって交換したり賣買したりして、有無相通ずるという慣例があるので、槐市すなわち「槐竝木のマーケット」と呼ばれるようになった。かなたに目をやれば、建章宮の樓門の上に「風見の鳥」の銅の鳳凰が風の方角のとおりまわるのが見え、また一段と高く天上の露をうける銅盤をささげた仙人掌がそびえているのが見える。＄
未央宮のわきの天禄閣はひっそりとしているが、そのなかでは専門の學者が集まって莫大な宮中の藏書を校正しているのだ。はるか彼方にある昆明池では、えらばれた軍の精銳が戦船で水戦の演習をやっている。宮城の外郭に立ちならぶ王侯貴族 の朱塗りの邸宅のりっぱなことは梁の孝王が領地に立てられたという、あの評判の平臺にも匹敵するほどりっぱなものだ。宰相の官廳の黄色く塗った建物は外戚の住まう區劃へ路が通じている。皇族の御殿や外戚の屋敷がつらなって高い塀がめぐらされている。いずれも大邸宅であるから食事どきになると鐘を鳴らして合圖をし、大勢の家族がそれを待っている。そこに出される食膳は金をかしぎ玉をきざむといわれるほど贅澤きわまる山海の珍味がならべられる。こういう邸宅には美人の姫姿を住まわせる建物が別にあって、あやぎぬのカーテンがかけられた小粋な家が無数に竝んでいるかと見れば、また大道に面 して、青漆で塗った堂々たる樓閣が幾重にもつづいている。正門を出入する車には寶石を飾ったきぬがさがかさされ、彫刻した戦をおいた馬に金絲をあんだ手綱がつけられ、それが蘭の木のわくのついた窓や、錦の刺繡でつつんだ柱や、壁にわだかまる玉の龍のかざりなどと相映じて目もくらむように美しい。錦の刺繍でつつんだ柱や、椽のはしにつけた玉の飾りが白壁に照りはえ、衣服につけた郷玉や劍佩のひびき、車や馬につけた大小さまさまの鈴の音、それがいっしょにまざりあって豪奢な雰圍氣をかもしだしている。王侯貴人といえば、その多くは皇帝親近の重臣であって、その權勢も竝ぶものがない。＄おたがいに盛大な宴會を開いて招待しあい、おのれの物力をほこるというありさまで、まるで宴會競争というほかなく、朝は古い家柄の金氏や張氏の屋敷に集まるかと思えば、暮には新興貴族である許氏(元帝の外戚)や史氏(宣帝の外戚)の屋敷へとまりがけのパーティがある。＄北の屋敷町でや笙を吹く聲が風につたわって聞こえてくるかと思えば、南の屋敷町では鐘や磐をうつやかましいどよめきがさわがしく耳にはいってくる。高官連中もなかなか負けてはいない。陸賈のような要領のよい金滿家はためた金を五人の子に分かちあたえて生産の業をいとなませ、自分は多くの近習をひきつれて、子供の邸宅を順々にとまり歩いて、宴會をもよおさせてたのしむという手がある。また陳遵のような客ずきで豪快な男は、來客の車の轄をぬきとって井戸 のなかに投げこませ、急には帰れないよぅにするという非常手段をつかっても酒を飲ませようとする。これだから、歌舞音曲を家業とする趙氏や李氏の家には出入りの人あしのしげいのもうなずかれる。なかには蕭育と朱博のように二人だけ特別に結託して仲のよい交際をしている飲み仲間もいる。宮城(皇居)も皇城(官街)も日が暮れかかる。黒い牛がひいた紺色の幌の車が塵をまきあげて走ってゆく。俠客が金丸をはじいて鳥をとっているのが、まだしだれ柳のならぶ道をぶらぶらと歩いている。娼婦がいかにも殊勝氣に桑の葉をつむかごをたずさえて小路を歸ってくるが、そのかごは優美なつくりで銀のつるがついている。さて遊廓のあるところは桃や李の花も一段とはでに見えて美女と艶をきそう景色。そこへ遊びにやってくる遊俠少年たちは、みなかるい裘を着て、肥えたたくましい馬に乗り、金に不自由のない連中だ。有名な聲樂家李延年は、絶世の美人とうたわれた彼の妹と二人宮中に入り、兄はその歌戦で妹はその容色で、皇帝の御機嫌をとりむすんだ。お上のなされることはこれにならうのが常で、貴族のなかにも、路ばたで民家の美女を見かけると、娘だろうと人妻だろうと、金と力にものをいわせて自分の持物にするお方がすくなくない。昔の羅敷という美人は自分には夫があるからといって、お大名に肘鐵をくらわせたそぅだが、當今の羅敷は榮燿榮華ができるとなれば、さっさと馬車にのせられて歸ってゆく。
愛の誓いをあらわして堅くむすんで解けぬという同心結の帶飾り!男女がからんではなれぬという連理樹の模様を織り出した衣!春の朝に出る桂の酒樽は樽ごとにくさぐさの旨酒が満たされ、秋の夜にともす蘭燈は、外國産の九枝の燈! 日に夜をついでの宴會や、いくところか席を移しての酒盛りがつづくが、この御連中は必ずお二人づれで、翠の幌の車のなかでも、奥座敷の珠の簾のかげでも、たったお一人ということはない。清らかな歌聲と琴のしらべが相通うところには、二人の心もひとりでに相通うのだ。男女愛慾の海におぼれてくらす一生がこれが一生だと思っている。古の賢者蘧伯玉が五十歳になつたとき、過去四十九年の自分をかえりみてなんとなくまちがっていたことを悟ったという話だが、今どきそんなことなど、この御連中にわかりっこはない。昔から名と利とは人が好むものだが、空に浮かんだ雲のように頼りないものだ。人生というものは、あの老子のことばにあるように災禍と幸福とが繩をなったようにからみあっていて、わざわいには、しあわせがよりかかっているし、しあわせには、そのかげにわざわいがかくれている。二つをきっぱり區別することはできない。好運にめぐまれて得意になっている連中も、すぐひっくりかえって不運に見舞われるのだ。
漢の景帝のとき、帝の母にあたる竇太后の一族というので、竇嬰が權勢をふるったが、景帝の皇后の弟の田蚡という男が次弟に頭を出してきて竇嬰を凌駕するよ うになり、景帝が崩じて武帝が立つと、田蚡はますます重用され、ついにその策謀によって竇嬰はあらぬ罪名をきせられ死刑に處せられた。田蚡も、まもなく重病にかかり、竇嬰らの亡霊になやまされながら死んだ。田紛も死後、重大な罪悪が發覺し、武帝は「生きていたら極刑に處してやるのだった」と悔んだという。二人とも互いに傷つけあって、ばかを見たものだ。その前後、最低の奴隸階級に近い境涯にあった衞青という男が、めきめきと頭をもたげてきた。姉の衛子夫が武帝のお目にとまって寵愛され、ついに皇后にまで昇進すると、その實の弟だというので、車騎將軍という部將になって匈奴征伐に參加し、大功をたてて長平侯に封ぜられ大將軍に任ぜられた。その後も外征に従事し名聲赫々たるありさまだったが、どうやら權勢の絶頂に達して、やや衰兆が見えだした。ところが、衛青の姉の子の霍去病という十八歳の青年が伯母や叔父のおかげで侍從になっていたのが、騎射をよくするというので嫖姚校尉という職に任ぜられ、大將軍衛青の出陣に從って思わぬ大勝利を博した。相次いで幾多の戦爭に功勳をたて、叔父の大將軍衛青以上の大物になった。この邊の移りかわりは、まったくあっというまの出來事だった。
誰も彼もりこうに立ちまわったつもりでいるが、あとから見ると、無駄なわるあがきというほかない。六國を攻めほろぼして天下を統一した秦の始皇帝でさえ、じつにばかげたことをやっている。
＄當時、望氣家というものがあって、山や川を望んでいろいろな運勢を豫言する術士 がいた。始皇帝は、東南の地方に王氣が立ちのぼっているということをつげ知らされて、いつも氣にしていたが、南方を巡狩。(視察旅行)したとき、金陵(今の南京)に盛んな王氣があるということを申しあげるものが出てきた。王氣というのは一種の怪異な氣象であって、それが立ちのぼるところから天子が出ると信ぜられた。なんでも内が赤く外が黄で、四方から立ちのぼるとか、霧のなかに城門のようなものが隠々とあらわれるとか、いつも殺氣を帶びて、ぞっとさせるようだとか、あるいは美しい蓋が霧の中に見えるとか、空中に龍が舞うようだとか、まじった色が薄暗く立ちこめて天をつくようだとか、いろいろな描寫があって素人にはわからないが、専門の術士が見ると、すぐわかるものらしい。そう聞くと、始皇帝はほっておけなかった。ただちに嚴命を下して、山を掘りくずして川をつくり、地脈を斷つことによって王氣を壓し消そうと試みた。これは秦淮という名で今ものこっている運河を見ればわかる。一方では、徐幅だの侯生だの盧生だのという方士たちをして不老不死の薬を四方に求めさせた。＄＄始皇の三十六年(西紀前二一一年)の秋、關東からきた使者が函谷關を通って華陰縣の平舒道にさしかかったところ、突然呼びとめられた。寶玉を持った男が「これを滈池君に届けてもらいたい」そういってから、また「來年は祖龍が死にますよ」とつけたした。滈池君とは都にある滈池という沼の神だという。「いったい、そりゃどうしたわけですか」と使者がきいた。すると、その人の姿はかき消すよぅに見えなくなった。寶玉だけがそこにおいてあった。使者は、その寶玉をたずさえて咸陽の都にいたり、阿房宮で皇帝に拜謁して、そのいきさつを言上した。始皇帝は黙って聴いてしばらくして「それは山鬼の類だが、山鬼というものは元來、一年内のことがわかるだけで、來年のことなどわかるものではないぞ」といった。しかし、謁見が終わって奥にはいってから「祖龍というのは人のさきになるもの、君主のことだ」といった。そして御府という寶物を管理する役人を呼んで寶玉を鑑定させた。すると、それは去る二十八年、始皇が長江を渡って大風に逢ったとき、河伯にあたえるため水に沈めた玉だった。始皇はぎょっとしたが、その後、ト者について「外遊が吉」と出たので、翌年地方をまわり、ついに途中で病死してしまった。そういうことはある程度、すでに前定された運命だったといえる。 昔、衛の靈公がなくなったとき、祖先の墓に葬ろうとしてトをたてたところ不吉と出た。それで沙丘というところに葬ることをトったところ吉と出た。そこで沙丘を掘らしたところ数仞の深さのところから石の棺の外廓が出てきた。それを洗ってよく見ると、銘が彫刻してあった。それは「不憑其子、靈公奪而里之」(其の子に憑らず、靈公奪って之に里る)という文字であったという。つまり、この古い墓をつくったとき、 誰かが後世の運命を知っていて、しかも靈公が死後のおくり名即ち靈公ということさえわかっていたのだ。それをわるあがきして、人を傷つけたり得意になったりするのはあさましいことではないか。＄ 秦の始皇が壓し消そうとした金陵の王氣はどうなったか。三國の吳の都となって建業といわれ、後に東晋がこれによって漢族の王室を保存することができ、さらに南朝の都となって宋、齊、梁、陳の四朝を經ている。要するに王氣を消すことには成功しなかったのだ。 風流天子として一代に鳴らした成帝も今はどこへ行かれたか。富平侯張放をつれて 朱門から出て、自ら張公子といわせて民間を微行し、歌舞をめで美人をあさられたということだが、今でも朱門は立ち竝んでいるけれど、張公子などというお方は、とっくに土になってしまわれた。一時は飛ぶ鳥を落とすような勢威のあった李廣將軍も一 たん失職してしまえば、灞陵の尉という小役人のために、さんざんばかにされ通行を禁止されるというていたらくだった。從者が見かねて、この方は前の將軍だといったら、その小役人は醉っばらっていて「おれは現役の將軍でも通しはせぬ。まして前の將軍などすこしもおそれはせんぞ」と放言してはばからなかった。 よく考えてみると、人生百歳といっても百歳になるものは、ほとんどない。たとえ百歳になったところで、どうせ死なずにはいない。誰でも死が待ちかまえている。どうにもこうにも萬物の法則として一切は變化せねばならぬ。權力の絕頂に立って華の極致にくらしていると、この理窟がわからなくなるらしい。あの絶代の權勢をほこった漢の武帝さえ愛する李夫人がなくなったとき、「秋風がわびしく吹いて、そのものすごさ。桂の枝を吹き落として、かんばしいにおいも消えうせた」といわれたではないか。武帝が柏梁臺に群臣を集めて盛宴を張ったことはやかましく語りつたえられているが、それがいったいどうなったか。跡方もなくなってしまったではないか。年々歳々、春がいったかと思うと、また春がやってきて、月日が流れてゆくが、いつも、あくせくと走りまわって、名譽をあらそい、利益をあらそってむなしく一生を送るのはじつに無駄なことだ。
あの顔駟という男は文帝のとき、宮中の宿衛にあたる郎という職についたが、交帝は文人を愛せられたので、武術に精を出す顔駟などかえりみられなかった。次の景帝 がんしのとき、帝は老人を尊重され、顔駟がまだ若かったので問題にされなかった。ところが、次の武帝の御世になると、こんどは、若いものを抜擢されるが、老人は相手にされなかった。顔駟はもう老人になっていたのだ。あるとき、武帝が郎官の詰所へお立ち寄りになった。白髪の老人、髪が白いだけではない、眉も頰ひげも雪のように白い老人の郎官がお目にとまったので、「おまえはいつからこの役をつとめているか」と下問された。そこで顔駟は三代の皇帝にお仕えした一部始終をお答えしたので、武帝も非常に感動し、彼を會稽都尉(會稽というところの連隊長兼警察部長のような職)に抜擢されたという。しかし、武帝のような明君が出ない當世では、そんなことをしていたところで一生不遇で終わるほかあるまい。 ＄また漢朝の始めごろ、齊王の丞相,(家付家老)であった曹參に面會しようと苦心した魏勃という男がある。彼は貧乏人でどうしても手づるがなかった。そこでよく考えてから、朝早くから丞相の舍人(執事、側近)の宅の門前へ行って、掃除をすることにし、それを朝くり返した。舎人があやしんで門衛に命じて訊問させたところ、丞相にお目にかかりたいが、どうしてもつでがないので、お宅の門前を掃除して機會を待っていますと答えた。それは氣の毒だと思ったか、舎人は主人の曹參に取り次いで面會がかなった。それがもとで魏勃は齊王のもとで立身出世したという話だ。しかし後に漢朝の大宰相になった曹參のような大人物は、そうざらに存在しているわけはないから、＄いまどき門前を掃除していたら、つまみ出されるくらいが落ちではないか。その昔、一度、榮華をほしいままにすると、自分では千年も贅澤なおごりがつづくと思っていても、それはちょうと羽翼がはえて、つむじかぜにはばたいて天に舞いあがるようなもので、やがては、まもなく水がひいて沙濱にうちあげられた魚のように泥まみれになってしまう。漢の成帝の御世にはやった童謠の文句ではないが、桂の花は咲けど實をむすばず、黄雀がそのいただきに巢をつくる始末だろう。そして、秦の代の大名東陵侯とあがめられた召平のように時代がかわれば、青門のそとで、しがない瓜づくりの農夫になりさがってしまう運命をまぬかれない。黄金でもとけてしまうことがある。これは大丈夫と頼んでいてもあてにはならない。眞白い絲だと思っていても、いつか黄色くもなり黒くもなる。人の心の移りゆきも、そんなものだ。こちらが權勢の地位にあるときと、それを失ったときとで、交際して いた人々の根性がわかる。紅顔のわかもの時代にどんなにしたしくしていても、以前は以前のことで、白髪頭の老人となって零落しておれば、ばかにされるだけ。昔なじみを頼って、富貴に時めく友人をたずねて行けば、玄米飯に一菜という粗末な食事を出され、安蒲團に寝かせてくれるくらいが精々のもてなしだろう。なじみの友人たちは、おちぶれてしまった。新しい知り合いときては、通り一ぺんのつきあいで、心意氣というものがない。韓安國が官職をうばわれて投獄されたときのように、死灰、ひえきった灰になってしまった。廷尉の職を退官した下邽の翟公のように、急に訪問客がなくなって門前に雀羅が張られるのを見てなげきかなしむというでいたらくだよ。もうだめだね。さあ歸ろうよ。
田舎に歸ってくらすことだ。司馬相如は故郷にいれられず、蜀を飛び出して漢の武帝に仕えて交名が天下に高まった。同じ蜀の人間でも揚雄は前漢の末に長安に出て仕官したものの適當な推薦者がなく、官界ではさっぱり芽が出なかった。學問と文才とが後世につたえられたに過ぎない。これはひとごとではない。自分もまったくわが身につまされる思いだ。東方朔は自己推薦の文をつくって漢の武帝にたてまつったが、そのなかで「十二の年から三年間、冬ごとに讀み書きを勉强して、十四のときには交章をつくらせても事務をとらせても充分一人前の御用にたつようになった」と自慢している。そうして武帝に召しかかえられたが、當世では、そう簡單に自己推薦をするわけにもいかない。また張釋之は下級官吏として文帝、景帝二代におつかえしたが、十年間、いっこうにかえりみられなかった。武帝の御世になって拔擢されて延尉(検事總長兼警視總監のような職)に任ぜられると、名聲が天下に聞こえ、後世にまでも喧傳されている。十年間の足踏みも無駄ではなかったといえる。しかし、この自分はいったいどうであろうか。 漢の汲黯という高官が武帝に對して「陛下は群臣を用いられるにあたって、後からきたものほど、昇進させて上席にすえられること、ちょうど薪を積みかさねるような、やりかたでございます」と不平を言上したことがある。自分は彼ほどの高官でもない のに、後輩にどんどん追いぬかれて、いつまでも下積みになって苦しんでいる。公孫弘という人物は宰相になられたとき、東閣を開いて天下の大賢大才、國士をまねいて優遇し、平生は顧問にあて、機會があれば、これを朝廷に推薦されたというが、どうも當世では、まだそんな東閣を開いて賓客を待つというような話は耳にしない。洛陽の才子質誼は十八才にして學識およぶものがなく、二十歳にして文帝に召されて博士に任ぜられ、最高顧問として帝の側近に侍したが、「この青二才出しゃばりやがる」と嫉妬反感が高まり、ついに讒言によって偏鄙な湖南省の長沙王の太傅(養護 教育係)という職に左遷された。そして、そこでなれぬ風土のため病氣になって死んだ。自分も、下僚に沈んで志を得ず、古人の跡をしのんで感慨無量なものがある。
<End Translation>
<Formatted Translation>
長安の都は四方に山河をめぐらし、沃野千里、そのなかに開けている。
その中心にあたる宮城にはいるには九重の門がつらなっている。
この皇居の壯大無比なのを自分の目で見なければ、どんなに天子がいものであるかはわからないだろう。
この皇居を中心とする長安城は、東にははるかに崤山の險をひかえ、古來有名な函谷關によって守られた王畿の土地に、
天上の星からいえば鶉首の分野にあたるという、この秦の地の龍首という山丘の上に建設された。
その昔、この都を開いた漢の高祖がここへこられたとき、水星、金星、火星、木星、土星の五遊星がめずらしくも東井という星宿のあいだに集まったという現象が見られ、
それが聖人が世に出るめでたい兆として太平の世が始まった。
地上では八つの川があたかも地軸の八つの柱に應ずるかのように、西、南、北に分かれて流れている。
秦以來の要害に幾重にも關所を設けてあり、諸侯に百倍する堅固な地勢である。
宮殿の周圍には離宮が三十六も設けられ、その構えの壯大さにおどろかされる。
未央宮の西にある桂殿のあたりは薄暗くおごそかで、きらめく玉をちりばめた樓閣と相對し、
皇后の住まわれる椒房のあたりは奥深 くもの静かで、黄金づくりの御殿につらなっている。
三筋の大通り、九つの市街が交錯していて、その末は城壁にいたっている。
宮城の數多い門戸は朝早くあけはなたれる。
上下二階をなす同廊がななめに爆鵲觀に通じ、一方の四辻はただちに鳳凰臺にまで達しているのが見える。
宰相を始めとする最高幹部は劍を帶び履をはいたまま、しずしずと南宮へはいってゆく。
一方、陛下に上奏や謁見をするため響をさし冠の櫻を垂れて威儀をただした官僚が北闕を通ってあわただしくやってくる。
群がり集まってくる百官の車馬につけた鈴の書も數が多いので耳にかまびすしく、
それぞれの階級を表示した旗さしものの形や大小は目もあやにひとをおどろかせる。
さすがは海内第一の壮觀というほかない。
皇帝陛下、皇后、宮妃はいわずもがな、交武百官の禮服の華美なこと、五色にかがやいて天地四方の萬物と調和し、
そのなかに自然の秩序があって、あたかも天にかかって明るく照らす天の川の運行を象徴しているといえよう。
御所警衛の任にあたる侍從武官は所屬の近衛兵をひきいて香木のかぐわしい階段の兩側を嚴然として固めている。
一方、教化の中心をなす國立大學のところには、圓形の池があって清湖な水がたたえられ、またこれにつづく廣場や歩道にはたくさんの槐の木が植えられて整然と列をなしている。
＄ここは、諸國から選抜されてきている大學生が毎月、一日と十五日に集合して自分の郷里の特産物とか、書物とか樂器とか、 いろいろな物を持ちよって交換したり賣買したりして、有無相通ずるという慣例があるので、槐市すなわち「槐竝木のマーケット」と呼ばれるようになった。かなたに目をやれば、建章宮の樓門の上に「風見の鳥」の銅の鳳凰が風の方角のとおりまわるのが見え、また一段と高く天上の露をうける銅盤をささげた仙人掌がそびえているのが見える。＄
未央宮のわきの天禄閣はひっそりとしているが、そのなかでは専門の學者が集まって莫大な宮中の藏書を校正しているのだ。
はるか彼方にある昆明池では、
えらばれた軍の精銳が戦船で水戦の演習をやっている。
宮城の外郭に立ちならぶ王侯貴族 の朱塗りの邸宅のりっぱなことは梁の孝王が領地に立てられたという、あの評判の平臺にも匹敵するほどりっぱなものだ。
宰相の官廳の黄色く塗った建物は外戚の住まう區劃へ路が通じている。
皇族の御殿や外戚の屋敷がつらなって高い塀がめぐらされている。
いずれも大邸宅であるから食事どきになると鐘を鳴らして合圖をし、大勢の家族がそれを待っている。
そこに出される食膳は金をかしぎ玉をきざむといわれるほど贅澤きわまる山海の珍味がならべられる。
こういう邸宅には美人の姫姿を住まわせる建物が別にあって、あやぎぬのカーテンがかけられた小粋な家が無数に竝んでいるかと見れば、
また大道に面して、青漆で塗った堂々たる樓閣が幾重にもつづいている。
正門を出入する車には寶石を飾ったきぬがさがかさされ、彫刻した戦をおいた馬に金絲をあんだ手綱がつけられ、
それが蘭の木のわくのついた窓や、錦の刺繡でつつんだ柱や、壁にわだかまる玉の龍のかざりなどと相映じて目もくらむように美しい。
錦の刺繍でつつんだ柱や、椽のはしにつけた玉の飾りが白壁に照りはえ、
衣服につけた郷玉や劍佩のひびき、車や馬につけた大小さまさまの鈴の音、それがいっしょにまざりあって豪奢な雰圍氣をかもしだしている。
王侯貴人といえば、その多くは皇帝親近の重臣であって、その權勢も竝ぶものがない。
＄おたがいに盛大な宴會を開いて招待しあい、おのれの物力をほこるというありさまで、まるで宴會競争というほかなく、朝は古い家柄の金氏や張氏の屋敷に集まるかと思えば、暮には新興貴族である許氏(元帝の外戚)や史氏(宣帝の外戚)の屋敷へとまりがけのパーティがある。＄
北の屋敷町でや笙を吹く聲が風につたわって聞こえてくるかと思えば、
南の屋敷町では鐘や磐をうつやかましいどよめきがさわがしく耳にはいってくる。
高官連中もなかなか負けてはいない。
陸賈のような要領のよい金滿家はためた金を五人の子に分かちあたえて生産の業をいとなませ、自分は多くの近習をひきつれて、子供の邸宅を順々にとまり歩いて、宴會をもよおさせてたのしむという手がある。
また陳遵のような客ずきで豪快な男は、來客の車の轄をぬきとって井戸のなかに投げこませ、急には帰れないよぅにするという非常手段をつかっても酒を飲ませようとする。
これだから、歌舞音曲を家業とする趙氏や李氏の家には出入りの人あしのしげいのもうなずかれる。
なかには蕭育と朱博のように二人だけ特別に結託して仲のよい交際をしている飲み仲間もいる。
宮城(皇居)も皇城(官街)も日が暮れかかる。
黒い牛がひいた紺色の幌の車が塵をまきあげて走ってゆく。
俠客が金丸をはじいて鳥をとっているのが、まだしだれ柳のならぶ道をぶらぶらと歩いている。
娼婦がいかにも殊勝氣に桑の葉をつむかごをたずさえて小路を歸ってくるが、そのかごは優美なつくりで銀のつるがついている。
さて遊廓のあるところは桃や李の花も一段とはでに見えて美女と艶をきそう景色。
そこへ遊びにやってくる遊俠少年たちは、みなかるい裘を着て、肥えたたくましい馬に乗り、金に不自由のない連中だ。
有名な聲樂家李延年は、絶世の美人とうたわれた彼の妹と二人宮中に入り、兄はその歌戦で妹はその容色で、皇帝の御機嫌をとりむすんだ。
お上のなされることはこれにならうのが常で、貴族のなかにも、路ばたで民家の美女を見かけると、娘だろうと人妻だろうと、金と力にものをいわせて自分の持物にするお方がすくなくない。
昔の羅敷という美人は自分には夫があるからといって、お大名に肘鐵をくらわせたそぅだが、當今の羅敷は榮燿榮華ができるとなれば、さっさと馬車にのせられて歸ってゆく。
愛の誓いをあらわして堅くむすんで解けぬという同心結の帶飾り!
男女がからんではなれぬという連理樹の模様を織り出した衣!
春の朝に出る桂の酒樽は樽ごとにくさぐさの旨酒が満たされ、
秋の夜にともす蘭燈は、外國産の九枝の燈! 
日に夜をついでの宴會や、いくところか席を移しての酒盛りがつづくが、この御連中は必ずお二人づれで、翠の幌の車のなかでも、奥座敷の珠の簾のかげでも、たったお一人ということはない。
清らかな歌聲と琴のしらべが相通うところには、二人の心もひとりでに相通うのだ。
男女愛慾の海におぼれてくらす一生がこれが一生だと思っている。
古の賢者蘧伯玉が五十歳になつたとき、過去四十九年の自分をかえりみてなんとなくまちがっていたことを悟ったという話だが、今どきそんなことなど、この御連中にわかりっこはない。
昔から名と利とは人が好むものだが、空に浮かんだ雲のように頼りないものだ。
人生というものは、あの老子のことばにあるように災禍と幸福とが繩をなったようにからみあっていて、わざわいには、しあわせがよりかかっているし、しあわせには、そのかげにわざわいがかくれている。二つをきっぱり區別することはできない。好運にめぐまれて得意になっている連中も、すぐひっくりかえって不運に見舞われるのだ。
漢の景帝のとき、帝の母にあたる竇太后の一族というので、竇嬰が權勢をふるったが、景帝の皇后の弟の田蚡という男が次弟に頭を出してきて竇嬰を凌駕するよ うになり、景帝が崩じて武帝が立つと、田蚡はますます重用され、ついにその策謀によって竇嬰はあらぬ罪名をきせられ死刑に處せられた。田蚡も、まもなく重病にかかり、竇嬰らの亡霊になやまされながら死んだ。田紛も死後、重大な罪悪が發覺し、武帝は「生きていたら極刑に處してやるのだった」と悔んだという。二人とも互いに傷つけあって、ばかを見たものだ。
その前後、最低の奴隸階級に近い境涯にあった衞青という男が、めきめきと頭をもたげてきた。姉の衛子夫が武帝のお目にとまって寵愛され、ついに皇后にまで昇進すると、その實の弟だというので、車騎將軍という部將になって匈奴征伐に參加し、大功をたてて長平侯に封ぜられ大將軍に任ぜられた。
その後も外征に従事し名聲赫々たるありさまだったが、どうやら權勢の絶頂に達して、やや衰兆が見えだした。＄ところが、衛青の姉の子の霍去病という十八歳の青年が伯母や叔父のおかげで侍從になっていたのが、騎射をよくするというので嫖姚校尉という職に任ぜられ、大將軍衛青の出陣に從って思わぬ大勝利を博した。相次いで幾多の戦爭に功勳をたて、叔父の大將軍衛青以上の大物になった。この邊の移りかわりは、まったくあっというまの出來事だった。
誰も彼もりこうに立ちまわったつもりでいるが、あとから見ると、無駄なわるあがきというほかない。六國を攻めほろぼして天下を統一した秦の始皇帝でさえ、じつにばかげたことをやっている。
＄當時、望氣家というものがあって、山や川を望んでいろいろな運勢を豫言する術士 がいた。始皇帝は、東南の地方に王氣が立ちのぼっているということをつげ知らされて、いつも氣にしていたが、南方を巡狩。(視察旅行)したとき、金陵(今の南京)に盛んな王氣があるということを申しあげるものが出てきた。王氣というのは一種の怪異な氣象であって、それが立ちのぼるところから天子が出ると信ぜられた。なんでも内が赤く外が黄で、四方から立ちのぼるとか、霧のなかに城門のようなものが隠々とあらわれるとか、いつも殺氣を帶びて、ぞっとさせるようだとか、あるいは美しい蓋が霧の中に見えるとか、空中に龍が舞うようだとか、まじった色が薄暗く立ちこめて天をつくようだとか、いろいろな描寫があって素人にはわからないが、専門の術士が見ると、すぐわかるものらしい。そう聞くと、始皇帝はほっておけなかった。ただちに嚴命を下して、山を掘りくずして川をつくり、地脈を斷つことによって王氣を壓し消そうと試みた。これは秦淮という名で今ものこっている運河を見ればわかる。一方では、徐幅だの侯生だの盧生だのという方士たちをして不老不死の薬を四方に求めさせた。＄
＄始皇の三十六年(西紀前二一一年)の秋、關東からきた使者が函谷關を通って華陰縣の平舒道にさしかかったところ、突然呼びとめられた。寶玉を持った男が「これを滈池君に届けてもらいたい」そういってから、また「來年は祖龍が死にますよ」とつけたした。滈池君とは都にある滈池という沼の神だという。「いったい、そりゃどうしたわけですか」と使者がきいた。すると、その人の姿はかき消すよぅに見えなくなった。寶玉だけがそこにおいてあった。使者は、その寶玉をたずさえて咸陽の都にいたり、阿房宮で皇帝に拜謁して、そのいきさつを言上した。始皇帝は黙って聴いてしばらくして「それは山鬼の類だが、山鬼というものは元來、一年内のことがわかるだけで、來年のことなどわかるものではないぞ」といった。しかし、謁見が終わって奥にはいってから「祖龍というのは人のさきになるもの、君主のことだ」といった。そして御府という寶物を管理する役人を呼んで寶玉を鑑定させた。すると、それは去る二十八年、始皇が長江を渡って大風に逢ったとき、河伯にあたえるため水に沈めた玉だった。始皇はぎょっとしたが、その後、ト者について「外遊が吉」と出たので、翌年地方をまわり、ついに途中で病死してしまった。そういうことはある程度、すでに前定された運命だったといえる。 昔、衛の靈公がなくなったとき、祖先の墓に葬ろうとしてトをたてたところ不吉と出た。それで沙丘というところに葬ることをトったところ吉と出た。そこで沙丘を掘らしたところ数仞の深さのところから石の棺の外廓が出てきた。それを洗ってよく見ると、銘が彫刻してあった。それは「不憑其子、靈公奪而里之」(其の子に憑らず、靈公奪って之に里る)という文字であったという。つまり、この古い墓をつくったとき、 誰かが後世の運命を知っていて、しかも靈公が死後のおくり名即ち靈公ということさえわかっていたのだ。それをわるあがきして、人を傷つけたり得意になったりするのはあさましいことではないか。＄
秦の始皇が壓し消そうとした金陵の王氣はどうなったか。三國の吳の都となって建業といわれ、後に東晋がこれによって漢族の王室を保存することができ、さらに南朝の都となって宋、齊、梁、陳の四朝を經ている。
要するに王氣を消すことには成功しなかったのだ。 風流天子として一代に鳴らした成帝も今はどこへ行かれたか。
富平侯張放をつれて 朱門から出て、自ら張公子といわせて民間を微行し、歌舞をめで美人をあさられたということだが、今でも朱門は立ち竝んでいるけれど、張公子などというお方は、とっくに土になってしまわれた。
一時は飛ぶ鳥を落とすような勢威のあった李廣將軍も一 たん失職してしまえば、灞陵の尉という小役人のために、さんざんばかにされ通行を禁止されるというていたらくだった。
從者が見かねて、この方は前の將軍だといったら、その小役人は醉っばらっていて「おれは現役の將軍でも通しはせぬ。まして前の將軍などすこしもおそれはせんぞ」と放言してはばからなかった。 
よく考えてみると、人生百歳といっても百歳になるものは、ほとんどない。たとえ百歳になったところで、どうせ死なずにはいない。誰でも死が待ちかまえている。
どうにもこうにも萬物の法則として一切は變化せねばならぬ。權力の絕頂に立って華の極致にくらしていると、この理窟がわからなくなるらしい。
あの絶代の權勢をほこった漢の武帝さえ愛する李夫人がなくなったとき、「秋風がわびしく吹いて、そのものすごさ。桂の枝を吹き落として、かんばしいにおいも消えうせた」といわれたではないか。
武帝が柏梁臺に群臣を集めて盛宴を張ったことはやかましく語りつたえられているが、それがいったいどうなったか。跡方もなくなってしまったではないか。
年々歳々、春がいったかと思うと、また春がやってきて、月日が流れてゆくが、いつも、あくせくと走りまわって、
名譽をあらそい、利益をあらそってむなしく一生を送るのはじつに無駄なことだ。
あの顔駟という男は文帝のとき、宮中の宿衛にあたる郎という職についたが、交帝は文人を愛せられたので、武術に精を出す顔駟などかえりみられなかった。次の景帝 がんしのとき、帝は老人を尊重され、顔駟がまだ若かったので問題にされなかった。ところが、次の武帝の御世になると、こんどは、若いものを抜擢されるが、老人は相手にされなかった。顔駟はもう老人になっていたのだ。あるとき、武帝が郎官の詰所へお立ち寄りになった。白髪の老人、髪が白いだけではない、眉も頰ひげも雪のように白い老人の郎官がお目にとまったので、「おまえはいつからこの役をつとめているか」と下問された。そこで顔駟は三代の皇帝にお仕えした一部始終をお答えしたので、武帝も非常に感動し、彼を會稽都尉(會稽というところの連隊長兼警察部長のような職)に抜擢されたという。しかし、武帝のような明君が出ない當世では、そんなことをしていたところで一生不遇で終わるほかあるまい。
＄また漢朝の始めごろ、齊王の丞相,(家付家老)であった曹參に面會しようと苦心した魏勃という男がある。彼は貧乏人でどうしても手づるがなかった。そこでよく考えてから、朝早くから丞相の舍人(執事、側近)の宅の門前へ行って、掃除をすることにし、それを朝くり返した。舎人があやしんで門衛に命じて訊問させたところ、丞相にお目にかかりたいが、どうしてもつでがないので、お宅の門前を掃除して機會を待っていますと答えた。それは氣の毒だと思ったか、舎人は主人の曹參に取り次いで面會がかなった。それがもとで魏勃は齊王のもとで立身出世したという話だ。しかし後に漢朝の大宰相になった曹參のような大人物は、そうざらに存在しているわけはないから、＄
いまどき門前を掃除していたら、つまみ出されるくらいが落ちではないか。
その昔、一度、榮華をほしいままにすると、
自分では千年も贅澤なおごりがつづくと思っていても、
それはちょうと羽翼がはえて、つむじかぜにはばたいて天に舞いあがるようなもので、
やがては、まもなく水がひいて沙濱にうちあげられた魚のように泥まみれになってしまう。
漢の成帝の御世にはやった童謠の文句ではないが、桂の花は咲けど實をむすばず、黄雀がそのいただきに巢をつくる始末だろう。
そして、秦の代の大名東陵侯とあがめられた召平のように時代がかわれば、青門のそとで、しがない瓜づくりの農夫になりさがってしまう運命をまぬかれない。
黄金でもとけてしまうことがある。これは大丈夫と頼んでいてもあてにはならない。
眞白い絲だと思っていても、いつか黄色くもなり黒くもなる。
人の心の移りゆきも、そんなものだ。こちらが權勢の地位にあるときと、それを失ったときとで、交際して いた人々の根性がわかる。
紅顔のわかもの時代にどんなにしたしくしていても、以前は以前のことで、白髪頭の老人となって零落しておれば、ばかにされるだけ。
昔なじみを頼って、富貴に時めく友人をたずねて行けば、玄米飯に一菜という粗末な食事を出され、安蒲團に寝かせてくれるくらいが精々のもてなしだろう。
なじみの友人たちは、おちぶれてしまった。新しい知り合いときては、通り一ぺんのつきあいで、心意氣というものがない。
韓安國が官職をうばわれて投獄されたときのように、死灰、ひえきった灰になってしまった。
廷尉の職を退官した下邽の翟公のように、急に訪問客がなくなって門前に雀羅が張られるのを見てなげきかなしむというでいたらくだよ。
もうだめだね。さあ歸ろうよ。
田舎に歸ってくらすことだ。
司馬相如は故郷にいれられず、蜀を飛び出して漢の武帝に仕えて交名が天下に高まった。
同じ蜀の人間でも揚雄は前漢の末に長安に出て仕官したものの適當な推薦者がなく、官界ではさっぱり芽が出なかった。
學問と文才とが後世につたえられたに過ぎない。
これはひとごとではない。自分もまったくわが身につまされる思いだ。
東方朔は自己推薦の文をつくって漢の武帝にたてまつったが、そのなかで「十二の年から三年間、冬ごとに讀み書きを勉强して、十四のときには交章をつくらせても事務をとらせても充分一人前の御用にたつようになった」と自慢している。
そうして武帝に召しかかえられたが、當世では、そう簡單に自己推薦をするわけにもいかない。
また張釋之は下級官吏として文帝、景帝二代におつかえしたが、十年間、いっこうにかえりみられなかった。武帝の御世になって拔擢されて延尉(検事總長兼警視總監のような職)に任ぜられると、名聲が天下に聞こえ、後世にまでも喧傳されている。十年間の足踏みも無駄ではなかったといえる。しかし、この自分はいったいどうであろうか。
漢の汲黯という高官が武帝に對して「陛下は群臣を用いられるにあたって、後からきたものほど、昇進させて上席にすえられること、ちょうど薪を積みかさねるような、やりかたでございます」と不平を言上したことがある。自分は彼ほどの高官でもない のに、後輩にどんどん追いぬかれて、いつまでも下積みになって苦しんでいる。
公孫弘という人物は宰相になられたとき、東閣を開いて天下の大賢大才、國士をまねいて優遇し、平生は顧問にあて、機會があれば、これを朝廷に推薦されたというが、どうも當世では、まだそんな東閣を開いて賓客を待つというような話は耳にしない。
洛陽の才子質誼は十八才にして學識およぶものがなく、二十歳にして文帝に召されて博士に任ぜられ、最高顧問として帝の側近に侍したが、「この青二才出しゃばりやがる」と嫉妬反感が高まり、ついに讒言によって偏鄙な湖南省の長沙王の太傅(養護 教育係)という職に左遷された。そして、そこでなれぬ風土のため病氣になって死んだ。
自分も、下僚に沈んで志を得ず、古人の跡をしのんで感慨無量なものがある。
<End Formatted Translation>